PROGRAM B

アーティスト 山本晶大さんが鹿野に住むみなさんから地元にまつわるさまざまなお話をヒアリング。そこから得たインスピレーションをもとに作品制作するプログラムです。ウェブサイトでは集まったさまざまな声や地元の方々とのやり取りを紹介していきます。

岩竹さんのおはなし

鹿野のみなさんこんにちは。
今回は鹿野町にお住いの岩竹さんからいただいたお便りをもとにしたお話と、鹿野採話集の今後に関してのお知らせになります。

おじいさんの経験した鳥取地震

 東日本大震災から十年を迎えるこのタイミングで、先日またマグニチュード7.3の地震が福島県沖で発生しました。私の周りにも地震を機に移住されてこられた方が複数いますが、この間の地震で嫌な記憶や不安を思い出された方も少なくないかと思います。大地震などの大きな災害は否応なしに人々の記憶に深く刻み込まれます。岩竹さんのお便りにも鳥取地震に関することも書かれていました。

”僕のおじいさん、おばあさんの体験談等です。おじいさんが子どもの頃(戦争中)、鳥取地震に被災したようです。本当にすごい揺れで、人やものが20mくらい吹き飛んでいた。おじいさんは電柱に必死にしがみついた、との事でした。(おじいさん本人が吹き飛んだと言っていたような・・・)おじいさんは数年前に亡くなっていますが、あの話がどこまで本当だったのか・・・たまに思い出して詳細を聞いていなかったことを少し後悔しています。”

 人やものが20mくらい吹き飛ぶほどの揺れというのは本当であれば恐ろしいことです。実際の感じは分かりませんが、子供だった岩竹さんのおじいさんにはそれほどの衝撃だと記憶されたのでしょう。鹿野町誌(下巻)によると、昭和18年9月10日に発生した鳥取地震のマグニチュードは7.2で先日の福島県沖地震とほぼ同じ規模です。鳥取地震による死者・行方不明者は1,210名、家屋全壊7,485棟、半壊6,158棟。鹿野町では総人口2,662人中1,874人、総戸数538戸中371戸が被害を受け、長さ8kmにもおよぶ鹿野断層が生じるという大きな爪痕を残しています。数字として残っている被害状況を見るだけでも、おじいさんの記憶はそこまで大げさではなかったのかもしれないと感じられます。
 おじいさんやおばあさんが生きているうちにもっと詳しく話をきいておいたら良かったということってありますよね。私もあります。その反省を活かして、母方の祖父が戦前から戦中にかけて台湾に住んでいたときのことを一昨年に取材しに行きましたが、いざ身内から取材するとなるとちょっと気恥ずかしいものですね。それでも聞けるときにちゃんと話をして、後悔することを少しでも減らせていけたらなと思っています。

鳥取地震と鹿野の家屋

 鳥取地震では立っていられないほどの強烈な縦揺れのあとに横揺れがやってきて、建物の倒壊による死傷者が目立ったという記録が残っています。
 鹿野町誌(下巻)には、”死傷者の大部分は、家屋の倒壊が一瞬であったため脱出のいとまがなく、その下敷きとなった者が多い。またいったんは屋外に逃れたが傍の家屋が倒壊したためその下敷きになった者もある。” ”倒壊家屋の多くは地盤の弱い沖積層地域の木造家屋である。もともと山陰の木造家屋は昔から冬の積雪の重さによる倒壊を心配して、梁や横木は相当太い材料を使い、たわみに耐えるようにはしてあるが、「頭でっかち」で、地震に対する配慮はほとんど施されていなかった。このことが家屋の倒壊を多くしたのだと指摘されている。” と書かれています。
 ちなみに、下に載せている鹿野町・鹿野町教育委員会発行の『新訂 郷土読本 わたくしたちの鹿野町』から引用した鹿野町の農家の間取図に描かれているように、鹿野町の農家では家の中にマヤ(牛や馬などの家畜を飼う場所)のある家が多かったようです。家の中にマヤが無い場合も牛を大切に飼っている家は多かったのでしょう(現在使われているようなトラクターが普及する前は牛や馬などの家畜の力を借りて農耕を行っていたので、家畜はとても貴重な大切な存在だったと聞きます)。
 それを証明するような話は鹿野町誌(下巻)の町民の被災体験にも載っており、”各戸で牛も飼育していたので、家族同様野宿させた。” ”牛が牛小屋の中で暴れたので、観音寺山の竹藪につれていってつないだ。”(地震には竹藪がよいと言われていたらしく、竹藪に避難して生活していた家庭も多かった)との記述が残っています。

 私は大きな地震を経験したことがありませんが、高知県の海辺で育ったので「もし南海大地震が起きたらここ(自分の家や学校)も津波に飲み込まれて助からないだろう」という恐怖や不安を常に抱いていました。今も地元に帰省したときには「お願いだから今は地震来ないで」と思いつつ、いずれこの風景も津波に飲み込まれてなくなってしまうかもしれないと、少しずつ写真や映像を撮影して記録に残していっています。「天災は忘れた頃にやってくる」とは高知県出身の物理学者・随筆家の寺田寅彦の言葉です。

おばあさんのおはなし

 引き続き岩竹さんのお便りからで、おばあさんのおはなしです。

”おばあさんの嫌いな食べ物は、おかゆ、おじやなどのご飯を汁で煮たものです。戦争のときに、たくさん食べすぎた。とのことです。それほど、食べることができたのは良いのか悪いのか、僕が小さいときに聞いた話で当時は「ふーん」でしたが、今思えば、戦争を思い出すのかな?と思うようになりました。

おじいさんから聞いた話です。おばあさんは、若い頃鹿野でカブに乗っていた。しかも、鹿野で最初にカブに乗ったのはおばあさんだ。とのことです。調子に乗って、今のカトウショップの横のわき道を通る際、溝に落ちたと聞きましたが。

僕の母が嫁いだ時に、いろいろなレシピを教えてもらったそうです。僕の中でのお気に入りは、甘酒です。作り方は、炊飯器で1升ぐらいを大量に作る。特徴は、のどを突く甘さです。いつか、世界に広めたいです。”

 まだ他に誰も持っていないカブに乗っていることが誇らしくて、乗り回していたら溝に落ちてしまうなんて、お茶目な方だったんですね。私も新しい機材を買ったらつい人に自慢したくなるので気持ちは分かります。

 戦時中、人口の多い都市部の方では配給も滞り十分な食料が行き渡らなかったという話もあるので、おかゆやおじやでもご飯を食べられただけ恵まれていたのかもしれないとも考えられますが、もしそのとき出されていたのが文字通り水増しされた薄いおかゆやおじやで、食べ盛りの頃に毎日そんなご飯ばかりだったとしたら、そりゃあもう見るのもうんざりだとなってしまっても不思議はありませんよね。
 また鹿野町誌(下巻)からの引用となりますが、”昭和初めの県下の農村は不況のどん底に突き落とされた。収入の柱である米と繭の価格が低下の一途をたどったためで農村の負債は累積した。昭和6年9月、満州事変が勃発し景気を刺激し始めたが、農業県の本県には何らの影響もなく深刻な農業恐慌は一向に改まらなかった。” ”農地や地主には保有米があったが、割当生産量が確保できないため保有米を供出用にまわさねばならない家もあった。” とあり、都市部の人々ほど困窮はしていなかったものの、昭和初期から続く恐慌から回復しないまま戦争の煽りを受け、鹿野町の人々の生活は決して楽ではなかったことが窺えます。
 岩竹さんのお母さんがおばあさんから教わった甘酒がのどを突くほど甘いのも、もしかしたら戦争中に不自由な思いをした反動があるからかもしれないとちょっと思いました。甘酒はどちらかというと苦手なのですが、のどを突くほど甘い甘酒がどんなものか、ぜひ一度飲んでみたいです。

鹿野採話集の今後の展開

 レターにて掲載させていただく鹿野採話集は今回で終わりとなりますが、鹿野にまつわるお話は引き続き募集しております。
 投稿していただいたお話は、2022年に予定されている鹿野芸術祭にて制作する作品の参考にさせていただく予定ですが、どのような作品になるかという具体的なことはまだ検討中です。ただ、この鹿野採話集でお聞きしたお話を通して、いろいろな発見をすることができたのは確かです。
 今までも何度か鹿野町を訪れたり滞在制作をさせていただいたりしてきましたが、そのときは鹿野町の城下町の限られたエリア以外のことは知りませんでした。今回の企画で勝谷地区や小鷲川地区についても少し知ることができたので、次回はそれらのエリアにも足を伸ばして、鹿野町の全体像を視野に入れながら制作できたらと考えています。なので、鹿野町にまつわるお話だけではなく、鹿野町の中で見ておくべき場所やおすすめの場所、作品を制作・展示できそうな場所や空き家などがありましたらぜひ情報をお知らせいただけたらとても助かります。
 また、今回の連載の感想などもありましたら、励みになりますので気軽に送っていただけると嬉しいです。鹿野芸術祭の運営メンバーからも「(自分の住んでいるエリアについて)初めて聞くことばかりでいろいろ驚きました」という感想をいただきましたが、自分の故郷や住んでいる場所って、よく知っているようでいて意外と知らないことも多いですよね。あなたが知っていることだけでなく、逆に鹿野で気になっていることも送ってくださったら調べてみたいと思います。
 鹿野採話集にお便りをくださったりお話を聞かせていただいたりした谷口さん、武部さん、福島さん、徳岡さん、塩川さん、ののさん、岩竹さん、そして匿名希望で手紙をくださった方々、本当にありがとうございました。どのような作品ができるか楽しみにしていてください。

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