PROGRAM B

アーティスト 山本晶大さんが鹿野に住むみなさんから地元にまつわるさまざまなお話をヒアリング。そこから得たインスピレーションをもとに作品制作するプログラムです。ウェブサイトでは集まったさまざまな声や地元の方々とのやり取りを紹介していきます。

谷口さんのおはなし

 鹿野のみなさん、Webでご覧になられているみなさん、こんにちは。今回は鹿野町出身の谷口一真さんからお聞きした鹿野のお話をもとにして記事を書かせていただきました。

2018年鹿野芸術祭での山本さん(左)の作品と、インタビューに応じてくれた谷口さん(右)

雪遊びと河内川

 谷口さんとは2018年の鹿野芸術祭02の際に対談させていただき、滞在制作中もドッヂアロー(先端にスポンジを付けた矢をアーチェリーで放ってドッヂボールを行う競技)に誘っていただいて、体育館のコートで障害物に隠れながら弓矢を撃ち合うという、小学生の頃を思い出すような楽しい経験をさせてもらいました。小学生の頃の遊びや経験というと、世代間共通のものもあれば、当たり前過ぎて気づいていないけれど実は地域特有だったというものもありますよね。私はこの間テレビで、運動会の競技にあったマスト上り(グラウンドに立てた3〜4mの竹をのぼる競技)が高知県特有のものだと知って驚きました。
 谷口さんから小学生の頃のことをお聞きすると、ちょうどスーパーファミコンやゲームボーイが普及した時期で、ゲームをする子供が増えたという同世代ならではの体験を共有する一方、昔は鹿野町にももっと雪が降っていて、かまくらを作ったり雪遊びをしたりしていたというお話をお聞きし、雪の降らない高知の沿岸部とはやはり違う環境だったのだということを改めて実感しました。冬になるとお堀の水に厚い氷が張り、その上を歩いてお堀に落ちる子供がいたというのも、私からしてみたら鹿野ならではのお話だなと感じます。
 降雪量が減って雪解け水が少なくなったことも一因なのか、以前は河内川も現在より水量が豊富で、釣りや素潜りをして遊んでいたそうです。私も鹿野滞在中にホットピアへ入浴しに行く際に何度も河内川の上を通りましたが、水量が少ないというほどではないものの、土手の内側にはグラウンドほどの空き地が広がり、それほど水深があるようにも見えなかったので、つい数十年前までは素潜りができるほどの川だったとは言われるまで思いもよりませんでした。気候の変化がその土地の風土や景色をどんどん変えていっているのだということを実感するお話です。
 谷口さんが通っていた鹿野幼稚園や鹿野小学校の校舎は、現在は鳥の劇場さんが活用されています。平成の市町村合併でなくなった小学校も多いですよね。もっと上の世代の方の子供時代の鹿野町のお話もぜひお聞きしてみたいです。

2018年鹿野芸術祭での滞在制作での交流会の様子

おばあさんとお祭り

 谷口さんの祖先は、分かっている限りでは曽祖父が現在の鬼入道のあたりに住んでいて、そこから当時鹿野の端っこだった立町に移り住んだとおばあさんから聞いているそうです。
 おばあさんが子供の頃は盆踊りなどのお祭りが数少ない娯楽で、近隣の村々は示し合わせて日にちをずらしながら盆踊りを開催し、盆踊りの日となると村のリーダー格の青少年が皆を率いて山を越えて隣町の盆踊りに混じりに行き、そしてまたあくる日は次の村の盆踊りへと遠征することが村と村の間の出会いと交流の場になっていたそうで、宮本常一の民俗学の話を聞いているようでとても興味深いです。昔は今みたいにレコーダーもなかったので、太鼓を叩いてリズムをとり、歌いたい人が列をなして並び、のど自慢大会のように歌を披露し合っていたというその様子は目に浮かぶように想像できます。特に歌の上手い人や踊りの上手い人はモテたそうなので、みな楽しみつつも一部の人は必死に歌い踊っていたのでしょう。盆踊りにもいくつか種類があり、その中でも「さんこ」という踊りがかかるとめちゃくちゃ盛り上がったとのこと。現在でもさんこは学校で習って覚えるため、鹿野の子供達は皆、さんこが踊れるそうですね。私の地方では必ず「鳴子」が買い与えられ、学校で「よさこい踊り」をしました。今でも各地で地域の踊りが根付いているというのは改めて考えるととても面白いです。
 お祭りとは少し異なりますが、25年ほど前は土曜夜市というものが鹿野でも行われていて、当時は大工町から紺屋町までお店が並び、とても賑わっていたそうです。もともとは米子で行われていた夜市を鹿野町商店会の方が視察に行って鹿野町にも取り入れ、金曜夜市、納涼祭と形を変えながら8年ほど前まで続いていたものの、近年なくなってしまったようです。私が大学生時代を過ごした尾道では今でも夏に商店街で土曜夜店をやっていますが、毎週末がお祭りのようであれはとても楽しいですよ!
 そんな土曜夜市を谷口さんは復活させようと活動されていて、昨年紺屋町で一夜限りの土曜夜市を開催されました。今年は新型コロナウィルスの関係で中止になりましたが、感染症収束後にまた開催したいとのことです。

市町村合併と町の変化

 谷口さんは大学を出て鳥取に戻ってこられてから、公務員試験の勉強をして高校の事務員として配属されたり、学生人材バンクというNPO法人で働いて地域おこし協力隊で鳥取にやって来られた方へのヒアリングや研修事業を行われていたそうです。現在、谷口さんは鹿の助スポーツクラブというNPO法人を立ち上げて公共施設などの代理管理を行われています。
 そうした公共のものごとに関わられた経験からか、平成の市町村合併以降と以前で町役場の職員の性質が変わり、ひいてはそれが町に大きな影響を及ぼしているという興味深い考察も聞かせていただきました。
 平成の市町村合併で鳥取市に吸収された鹿野町ですが、以前は気高町・青谷町・鹿野町からなる気高郡に属していました。また合併の歴史をさらに遡れば、現在の鹿野町はもともと鹿野町・勝谷町・小鷲河村(小鷲河村はさらに小別所・鷲峰・河内などからなる)などの町を合併してできたものだそうです。
 平成の大合併以前は町の税収は基本的に町の運営予算に回していました。大合併後は町の税収も全て一度市や県に集められ、その後再配分されるようになったのですが、鳥取市内でも人口の少ない地方よりも人口の多い中心部に予算が割かれることが多く、衰退しつつある地方ほどさらに衰退していく悪循環が生まれつつあるそうです。また、その構造は予算だけでなく人にも当てはまり、以前は鹿野町で育った人が鹿野町役場で働き、町の人々と密接に関わっていたため、町民の意向を汲んだり町の有志の活動に応じて町役場が支援を行ったりなど、町のやる気をまとめて公共事業として動かすコーディネーター役を担っていたのが、大合併以降は出身関係なく市の職員として扱われるようになり、鹿野出身の職員が町外へ異動させられたり、町外の出身者が鹿野町に配属されたりすることが増えたため、役場の町に対する熱意や姿勢が大きく変わってしまったように見えるとのこと。町にやる気がある人がいても、それをまとめて構想を実現に持っていく立場の人が不足しているため、かつて町役場が担っていた取りまとめ役をNPOなどが担うことができないかと谷口さんは言われました。
 平成の市町村合併で様々な弊害が起きていることはよく耳にしますが、町役場という視点からその弊害を詳しく考えたことはなかったため、新鮮であると共に色々と考えさせられるお話でした。

 谷口さん曰く、昔は鹿野町に沢山の建築会社があって、鹿野中学校を出て青谷高校を卒業し、建築会社に就職する人も多かったのに、いつの間にか建築会社が一気に減ってしまっていたというお話も興味深いです。鹿野町で建築会社に勤めていらした方からその辺の話もぜひお聞きできたらと思います。

2018年鹿野芸術祭でのアーティストトークに参加する谷口さん(左)

 現在鹿野町にお住みでない方でも、鹿野町出身であったり、鹿野町に住んでいた、鹿野町と何らかの関わりがあるという方はぜひ手紙やメールをお送りください。都合が合うようでしたらZOOMなどを用いたインタビューも大歓迎です。あなたの鹿野にまつわるお話をお待ちしております。

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