PROGRAM B

アーティスト 山本晶大さんが鹿野に住むみなさんから地元にまつわるさまざまなお話をヒアリング。そこから得たインスピレーションをもとに作品制作するプログラムです。ウェブサイトでは集まったさまざまな声や地元の方々とのやり取りを紹介していきます。

徳岡さんのおはなし

 鹿野のみなさんこんにちは。今回は鹿野町勝谷地区で生まれ育ち、鹿野町総合支所(旧町役場)で支所長を勤めておられた徳岡さんにお話を伺いました。

鹿野町の玄関口 勝谷地区

 勝谷地区は地名に谷という名が入っているとおり、東西にある二つの山に挟まれた谷間の平地で、もとは乙亥正・岡木・中園・宮方・寺内・今市村のある勝見谷という地名だったのが、1889年(明治22年)の町村合併の際に六村が合わさって勝谷村となり、1955年(昭和30年)の町村合併で鹿野町になりました。(*1) 勝谷地区は海側の気高町に食い込むかたちで、天狗の鼻のように突き出た不思議な区切られ方をしています。徳岡さんによると、昭和の合併の際には鹿野町に入るか気高町に入るか悩んだという話があったらしいのですが、もし勝谷村が鹿野町に入らなかったら、今の鹿野温泉はなかったのでしょう。
 山間部の山村だった小鷲河村、城下町だった鹿野村に対し、勝谷村は谷間の平野に田んぼが広がる農村部で、東側の山裾に家屋が並び、そこに街道があったそうです。町村合併のあった明治22年頃には田畑の中を鹿野村に向かって南北に真っ直ぐ伸びる道もできたため、鹿野村から勝谷村までの距離が短縮され、鹿野町や付近の人々の生活を大きく変えていったと言われています。(*1)
 徳岡さんが子供の頃はまだアスファルトによる舗装もされておらず、水はけをよくするために土が山なりに盛られており、子供ながらによくこんなかまぼこみたいな砂利道を車が通るなと思いながら見ていたそうです。やがて1965年(昭和40年)には、国道9号線に通じるバイパスとも繋がって勝谷地区は鹿野町の玄関口となり、現在もこの道は国道32号線として利用されています。
 一昨年の5月には鳥取西道路(山陰道)も開通し、6月には道の駅西いなば気楽里もオープンしました。徳岡さんは現在、この道の駅で駅長を勤めておられます。
 勝谷地区は温泉付き分譲住宅地や町営住宅の建設、宅地の造成など行われた成果もあってか、地方の人口減少が深刻化している中では珍しく、1920年(大正9年)には1,131人だった人口が、2004年(平成16年)には1,620人と489人も増えています。(*1)
 今回のコロナ禍で、都市部で生活することのリスクが可視化され、地方移住の熱がまた高まっていくのではないかと見られており、山陰道の開通によって、より交通の便の良くなった鹿野町の玄関口である勝谷地区がこれからどう発展していくのか楽しみです。

温泉とミュージカル

 戦後の1940年(昭和22年)、鳥取県が貧乏財政の立て直しに「大山・温泉・借銭」の推進を図る三セン政策 (*2)を打ち出し、勝谷村も1953年(昭和28年)に鳥取大学や岡山大学温泉研究所に調査を依頼して、鷲峰山から浜村温泉を結ぶ線上に線脈が走っていることを確認しました。(*1)
 昭和40年代、すでに観光地化していた浜村温泉に対し、鹿野町は俗化させない温泉地を作ろうと療養所などの福祉施設に力を入れ、観光地ではなく保養地としての温泉事業を推進していったそうです。
 そうしてできた温泉付き分譲地に、宝塚歌劇団で音楽家をしていた中野潤二先生が別荘を構えられ、保養に来られていたことが鹿野町の大きな転機に繋がっていきます。当時、鹿野町では文化活動として鹿野町民音楽祭という催しを開いていましたが、演奏者として参加する住民は少なく、このまま続けても展望に欠けると悩んでいた際、ミュージカルならお手伝いできるがどうかと中野先生にすすめられたことがきっかけで、鹿野ふるさとミュージカルが始りました。初めの演目に選ばれたのは「桜姫物語」という郷土に伝わるお話で、最初はコーラスと映像とナレーションだけだったのが、翌年からは役者も付けてと徐々に発展していき、現在の完成形まで5年ほどかけて作りあげられたそうです。その後も、亀井茲矩の逸話を元にした「踊り見の城」など演目は増えていきます。ちなみに徳岡さんはこの踊り見の城で、兵主源六という敵の殿様役を演じたのが初めての役者デビューだったとのこと。
 そのように町の人々が、演劇に親しみや理解を寄せていたという下地もあってか、廃校となっていた鹿野幼稚園・小学校が2006年に鳥の劇場へと生まれ変わり、町の人々が表現活動に触れ合う機会は増していき、2018年(平成30年)に開校した小中一貫の義務教育学校 鳥取市立鹿野学園には現鷲科(あらわしか)という表現活動を学ぶ科目が独自に導入されました。
 現在、こうして鹿野芸術祭が続き、私が招かれているのもこうした背景があってこそなのでしょう。もし鹿野町が観光地としての温泉街を目指していたら、中野先生との出会いやミュージカルがなかったら、今の鹿野町とはまったく違うあり方をしていたのかもしれません。

*1:「新訂 郷土読本 わたくしたちの鹿野」より参照
*2:佐野 浩祥 論文「鳥取県におけるソーシャル・ツーリズムの展開」より参照

鹿野町と関係人口

 徳岡さんはお話の中で、中野先生と鹿野町との交流が最近地域振興などについて話されるときによく出てくる関係人口というものに当てはまるのではないかと言われました。
 関係人口という言葉が聞き慣れない人も多いかもしれませんが、元々そこに住んでいる人や移住してきた人を定住人口、その場限りの観光などに来ただけで地域と深い関わりを持たない人を交流人口というのに対し、滞在制作で度々鹿野町を訪れている私や、保養先として訪れた鹿野町でミュージカルをすすめて関わるようになった中野先生のような、その地域に住んでいるわけではないけれど定期的に訪れたり、深い関わりを持ったりしている人のことを関係人口と呼びます。その他にも、その地域にルーツがある人や職場があって通勤している(もしくはしていた)人、ボランティアや催事で定期的に訪れる人なども関係人口に当てはまります。(*3)
 地域振興におけるベストは定住人口が増えることだと思いますが、今までその地域に関わりのなかった人がいきなり移住してきて定住するということは、人工や仕事の集中している都市部以外ではなかなか起こり得ません。そのような問題はもうずいぶん前から叫ばれていましたが、今までは交通インフラの整備や企業・ショッピングモールなどの誘致、観光資源の開発など、地域の都市化や観光地化を図ることで問題を解決しようとしたり、地域おこし協力隊や移住に対する補助金など行政によるバラ撒き政策で対応したりする地域が大半でした。それで上手くいった地域もあると思いますが、結果はご覧のとおり多くの地域で現在も都市部への人口流出と過疎化は止まらず、人口格差は広がっていく一方です。そこで、定住人口を増やすという目標のもう一個手前に、中期目標として置かれたのがこの関係人口という言葉です。観光振興をしても、観光で訪れる人の多くは一度訪れて通り過ぎていくだけで、観光から移住までの間には大きな隔たりがあります。その間を埋めるために、観光からもう一歩進んで地域の取り組みに地域外から参加してくれる関係人口を増やそうというわけです。
 過疎化が進んだ地域では、町内会活動や伝統行事の運営などの維持すら困難になり、コミュニティとしての機能が崩壊寸前になっているケースも珍しくありません。これに対しても、地域外から地域の取り組みに関わってくれる人を呼び込むことで、応急処置的に崩壊寸前の地域の延命を図る効果があるとする見方もあります。
 また、地域の移住促進に応えて移住したものの、地域に馴染むことができず諦めたという話を特に若い世代や都市部から地方への移住を試みた人から聞きますが、それは地域と都市部の間や、世代間での価値観や倫理観の違いに対する互いの無理解から生じていることも多いと私は見ています。いきなり移住者として地域に飛び込むと、地域の人が移住者を客としてではなく新参者として見てしまって移住者にかかる負担が大きくなりがちです。定住者を増やすには、移住者がその地域に馴染もうと努力するだけでなく、地域の側も移住者が心地よく住める環境を整える努力が必要で、それには地域の人々と地域外から来る人々との間で相互に尊重し、理解し合おうとする姿勢が不可欠です。関係人口という過程は、いきなり移住者になるのではなく、それぞれが互いに理解し合い適度な距離や付き合い方を掴むための慣らし期間としても機能することが期待できます。

 最近における鹿野町での新たな関係人口としては、青山学院大学が鳥の劇場と地域との関わりや鹿野学園の表鷲科などの取り組みを研究するために設置した社会情報学部附置社会情報学研究センター鳥取分室があります。その他にも以前より関西大学や鳥取大学が、空き家や耕作放棄地に対する取り組みのために鹿野町と関わっています。このようなかたちで地域に若者が定期的に訪れる機会を作ることはとても重要で、多くの若者が大学進学と共に都市部へ行き、そのまま都市部に残るか、地元に戻るか、就活で内定をもらった企業のある場所に引っ越すかの三つの選択肢しか持っていない中、大学の研究などで関わった地方に興味や愛着を抱き、地方に移住するという四つ目の選択肢を選んだ人が私の周りにも少なからず存在します。

 中野先生は鹿野町の名誉町民ともなり、近年も鹿野小学校の校歌を作っていただくなど現在も交流は続いています。
 また、中野先生が住まわれている西宮が阪神淡路大震災に遭った折には、鹿野町から鹿野温泉の湯をトラックに積んで神戸まで入浴支援に向かわれたそうです。この例が示すように、関係人口は都市部の人が一方的に地方に興味を向けたり施しを与えたりするようなものとは限らず、都市に住む人々のいざという時のセーフティーネットやサポートとして機能する可能性も秘めています。しかし、それは地域に住む人々と地域外から訪れる人々がそれぞれに尊重し合った関係性を築いて初めて成り立つものでしょう。
 まだ関係人口という言葉はなく、バブルすら訪れていなかった頃にあえて俗化させない温泉地づくりという方針を選んだ鹿野町の人々の決断は、関係人口創造の流れの中で現在に活きています。

*3:総務省 関係人口ポータブルサイトより参照

投稿を作成します
鹿のポストから メールから