鹿野芸術祭滞在レポート
アーティスト髙久柊馬さんが鹿野で行った
さまざまなフィールドワークの様子をお伝えします。
滞在レポート 2023
鹿野芸術祭滞在レポート リサーチ
2021年からの作家活動を機に国内を中心に滞在型の制作活動に参加してきました。
今回のレポートでは今まで滞在してきた地域との差を考えながら書かせていただきます。
鳥取駅から鳥取市鹿野町(以下、鹿野)に向かうバスに乗り、街を抜けて、おおきな池、日本海の波、田んぼを見た先に鹿野がありました。バスから降りて城下町に入ると景色は一転して、木造の世界になっていました。ここまで昔ながらの木を活かした家が並んでいる場所は、案外ないことで貴重な場所だと思います。町づくりの一環として、面格子に風車と川柳1句が飾られていることやかつての屋号を玄関に飾っている瓦が散歩に楽しさを与えてくれます。肌寒い季節なので日が落ちるのも少し早く、町がより一層静かに感じらる時間も長かったです。日の入りから散歩をすると、城下町内の明かりの存在が際立ちます。日中には見えてこなかった石造りの行灯が、夜になるとぼんやりと道をてらしてくれます。城下町のなかに居ても星はきれいに見える静かな町です。
日の明かり、夕焼け、風の音、雨の音、星空、植物が心地よく見えてくる、鹿野はとても自然と対話している町という印象です。
このように自然との対話を重視する町になっているのは、『亀井慈矩さん』という安土桃山時代~江戸時代前期の武将への尊敬から来ているようでした。
住人たちが自然と対話するような意識を持っているのか定かではありませんが、『亀井慈矩さん』の作った文化、景色を守ろうとする中でかつての「日本の美学」も同時に残ってきたのではないかなと感じました。この「日本の美学」が残っていることがあまりないことでしょうから、鹿野という町自体を貴重な場所に感じます。
自然が情緒的に感じられるように人々が生活することが、日本の美意識の1つだと思います。自分が目を向けたときに、周りにある自然の情緒を感じられるちょうど良さが鹿野にはありました。その一つが風車であり、玄関前にある瓦の屋号だったり、行灯だったりに繋がっています。
町という単位から視点を狭めて、鹿野の家を見ても同様なことが言えます。鹿野城下内の家には庭があり、その庭はどれも東洋的で自然との対話が軸となっています。一方で西洋的とはどういうことかというと装飾的に庭を作り、カラフルに色が見えてくるように作ることです。鹿野でも西洋的な面が全くないかと言われれば、そんなことはなく用水路の上には竹を植木鉢として作り変えそこにパンジーのようなカラフルな花で彩られていました。でも個人間の家でカラフルに彩っている家はあまりなかったです。
これらが緻密に重なり四季彩る町が出来ていると感じました。
僕は横浜に25年間住んでいますが、今まで一度も町を作ったという自覚はありません。ですが、鹿野の町では自分たちの力でも町が少しずつ変化をしていくと感じることができるんじゃないかな、今後を支える世代と共に何か出来たらとても楽しいんじゃないかな、そんな風に思えました。その時には先人によって今まで作り上げられてきたこの町の文化に、少しでも尊敬の念を払うことで四季彩る町はより良くなるでしょう。
滞在レポート2024 4 月
今回の滞在は髙久柊馬さんと彼のサポートとして建築を学ぶ美大生杉原有香さんもいっしょに鹿野を訪問。
鹿野祭りを中心にさまざまなリサーチをしました。
髙久さんレポート
今回のリサーチ
①鹿野祭り
鹿野に訪れる前から鹿野祭りの事や街並みの事は、鹿野芸術祭実行委員の方から聞いていてずっと気になっていた祭事だった。
初めて訪れた2023年は鹿野祭りの年ではなかったし、時期も十一月と祭りの動きが見えなかったからか気にはなってはいたがリサーチも祭りについて触れようと思わなかった。結局2023年度は、祭りの為に道路の標識やカーブミラーの作りが変えていて祭りに本気の町だなと感じる事。
神輿や榊、屋台、獅子舞に猩々と色々な要素が含まれていて楽しそうだなという印象を持つくらいでした。
鹿野祭りを見るため、その他のリサーチをするために2024年度は、四月の鹿野祭りに合わせ、四月のリサーチ・十一月の発表という形をとることにした。
何をどれだけリサーチをするのか決めずに訪れたが、鹿野に到着してすぐに前回の滞在(十一月)とは明らかに違う空気感が鹿野には流れていた。
その日の夜、箱庭雑貨店で夜ご飯を食べていると鍛治町から笛の音が聞こえてそろそろ祭りが始まるんだなと感じた。その日は特に何をするでもなかったが、翌日にも音が聞こえたのでついて行くと、桜の木の下で「獅子舞」や「笛」を練習している子たちがいて只々かっこいい風景だった。滞在場所の田中邸に帰ってきた後にも笛の音が聞こえて何だかタイムスリップ出来たような、聞いたことも見た事もなかったけれど日本の風景ってこれだなって思えた。
それ以降、祭りを楽しめるようにと祭りのリサーチをし続け、とりあえずどんな祭りなのか知っている状態で祭りを見ることが出来た。
実際に宵祭・本祭りが始まって見ると触れてみたかったけど、今まで触れて来なかった文化。自分の幼少期の頃の感覚を思い出した。
鹿野祭りでは、それぞれの町が町ごとに別の役割を持っていて、町ごとに並んで行列を作り決められたルートを進行するのだが、そのルートを進行する中で、一軒一軒にお祈りをして、一軒一軒楽しそうに呑んで食って交流していた。本当にご飯食べて、ちょっと進んで、ご飯を食べて、ちょっと進んでの繰り返しで、全然祭りが進んでいなかった。祭りが進んでいなかった訳ではなく、町全体とコミュニケーションをとる事がこの祭事で重要なんだなと見ていて思った。御神幸祭ってこれなんだなと凄くしっくりする形で最初から最後まで見ることができたように思えた。
2、3時間ほど神輿を担がせていただく機会を頂き神輿を担ぎながら鹿野の城下町を歩くことが出来た。神輿を担いで町を回っていると段々と町に対する愛着が不思議と強くなっていった。この家にはこの人が住んでいる。神輿を担いでいる仲間の家にも止まっていき神事を行い次の家へと。
一軒ずつ回ってるうちに祭りが終わる頃には町が今までと違って見えて知ってる町になった感覚になった。
実際、祭りが終ってから挨拶をする事もされる事も増えたと思う。通りすがりに話す人も増えたと思う。あまりここでは祭りの情報は書いていないけれど、鹿野祭りの話なら鹿野に住む人と出来るくらい自分も楽しめたと思う。共通の話題がここでようやく見つかって人と話しやすくなって、結果的に他のことも知れるようになった。
僕は今回の鹿野祭りを見て僕が、小学校入学前後までは、自分の家だなと思える範囲が今よりずっと広く、徒歩3分圏内は全部自分の家のように感じていたことを祭りを見てて思い出した。
まだ滞在期間は短いけれど、知ってる人、知ってる場所がこの祭りを通して本当に広がって鹿野に対して地元感のようなものを感じられるようにまでなれた。鹿野にいる人も、今回の祭りがきっかけで更にいい町だなと思ったんだろうなと思った。
いい御神幸祭だ。
今回のリサーチ
②河内について
今回も、河内についてリサーチしてみました。
①祭り
実は、河内にも神輿、榊を担ぎ茂宇気神社まで行って、町で榊を家々に届けるような祭りをやっていたけれど、約50年前には、人口不足で神輿の担ぎ手が足りなくなり榊だけ担ぐ事になったらしい。それから数年し榊も担ぐことが出来なくなり子供達に榊の枝を持たせ町を周る形で祭りを行なっていたがやがて子供もほとんどいなくなり今現在は、その面影は無いらしい。
②法師ヶ滝
ここでは「マイナスイオンツアー」と言ってトレッキングの要素と地元の食事を提供する事業を行なっていたらしい。(平成17年頃、約5年間くらい)始まりは参道の整備をしている時に偶然に出土した念持仏がきっかけらしい。それ以降、観光客を河内に呼び込む目的で法師ヶ滝参道ツアーとして事業を始める。そこでは地元の食材(山菜)を調理したものを竹で作ったお皿に入れて提供していたりヤマメの養殖をしてお客さんに塩焼きを自分で作って食べたりもしていたらしい。
現在は2023年の台風で道は荒れるに荒れ、掛けていた橋も壊れ、階段も場所によっては土砂で見えないほどになっていた。
また近くには蛇の池という伝説の池があるとか。今では湿地のようになっているらしい。
③河内阿蔵ルート
もうここは少なくとも70年は利用されていないらしい。
かつては阿蔵と河内で婿入りなどよくある話だったが今現在は特に用事もないなと言っている。
わざわざ行く人も見たことが無いと言っていた。河内阿蔵ルート(交通道路)を作る計画も途中まで進んでいたが結局それもなくなった。
そのくらい今は用事が無いらしい。
今回のリサーチ
③城山の隠しルート。
今回も城山の隠しルートに計2回行ってみました。
まず初めに、50年ほど前によくランニングコースとして使っていたという人が居ました。当時もその人くらいしか通ってる気配はなく林業関係の仕事をするための山道の様に見えるけど、仕事をしている姿をみた事はなかったとのことだった。
今、現在は、草や竹、木が背丈よりも高く、崖崩れを起こしている箇所が数箇所ある。50年前は、走れるくらいの道だったらしい。
この道は粘土質(赤色)の箇所が非常に多く、水捌けが悪く二日前くらいの雨なら水溜りとして残っていて其処にカエルが卵を産んでいる。
山菜は「こごみ」が無数に生えている。
4月10日〜4月24日のリサーチを通して/鹿野芸術祭2025年に向けた今年度の動きについて
『植物と人間、森と住宅の境界線』をテーマに制作していこうと思っています。
前年度の作品では、「庭」が一つのテーマになっていていました。鹿野の城下町内では住宅は森(外)と家(室内)の間に「庭」という中間に近い存在がある。鹿野の城下町の外では田圃や畑と四角く区切られ、耕された土地が広くある。どこの場所にいても自然との密接さのある「庭」「畑」「田圃」が目に入り、その奥には鷲峰山やその他の山が見えてき、季節をより一層際立たせたていた。
去年は、11月の一ヶ月間滞在していたのですが、11月の終わりに差し掛かって紅葉が顔を出してきてました。山が真っ赤になるとかの紅葉の絶景だとは思わなかったですが不意に見える赤色は品があり美しかった。これは、木造住居→庭→外のグラデーションになっていて溶け込み方からくる美しさだったなと思います。隣にある山から家へ植物の一部を移植した『内庭』を制作する事によりこのグラデーションの面白さを感じられるような作品を作りました。
去年度の鹿野からその曖昧な境界線の面白さに気がつき今回のリサーチもそれに基づき行いました。
まず初めに、古道・旧道についてです。
古道・旧道は、昔は使われていたが今現在は使われていない道のことです。おおよそ50年は使われていない道が鹿野には多いことが今回のリサーチでわかりました。
例えば、城山から鹿野学園流沙川方面に抜けられる古道があり恐らくは林業で使われていた道だと思う。50年前はジョギングコースにしていた人が居たのでその頃は、走り抜けられるほどに草がなかったらしい。当時は、まだ通れる状態にあったけれど人とそこで出会ったことは無かったと言う。(この道は粘りの良いオレンジ色・水色の粘土が取れる)
最も、城下町から近いこのルートだが行く度に鹿の足跡があって今は獣道になっている。
次に、細かい場所は覚えていないのだが前回の滞在で向井さんと一緒に歩いた青谷方面に抜ける古道(鹿野往来)はとても魅力があった。途中途
中にある隠し田や本当に微かに感じる使われていたであろう道感。奥に進むにつれて全く道を感じなくなって帰ることになったがとても考えるきっ
かけになった。もしかしたら一度でも人が手を入れた道は何十年経っても多少の安心感が残るのかなと思った。
古道探索中に前回も行った投入堂に行きたくなって向かった。
開拓されている街と呼ばれる場所での道とは違い、山の中に人が歩いているという山がメインにあるような道が投入堂に向かうまでの行者道だ。スタート地点から終わりまでの行者道は周りより足場が平たい所、足が掛けやすい場所が道として機能している。石に苔が付いていなかったり植物が生えていなく踏み固められた土が露出しているから誰もが迷わず安心して進んでいける。落ちたら死んでしまうかもしれないし、大怪我をするかもしれないから皆慎重になっているが、誰も道が無いとは思わないんじゃ無いかなと思った。
人が踏んでいることが判ればそれは道であるって言われている様な気がした。
城山の古道や鹿野往来の古道にも似た要素があって、今現在ほとんどの人が歩いていないにも関わらず前に進んでも大丈夫だよという安心感がある。何がそう思わせるのか考えると足元の植物の長さが周りより短かったり、土が見えていることだったりする。
その曖昧な道を森の中から探し出すことはとても面白い。獣道を通る獣の気持ちもよくわかった気になる。ここを通れば大丈夫だよって先人に言われるから通れる。
僕も森の中で作品を作ったことがあって、その時は自分の作品がちっとも目立たなく当時の僕は全く見えてこない作品に対してどうして良いのか困っていた。二度目に作った時には、森にはあまり無いような色をたくさん使い目立った作品を作った。その全く目立たなかった経験、目立たせられた経験から作ることはどれだけ魅せるか環境に決められるのではなく自分で決めることが大事なんだなと気づいた。目立つことで物としてみれるのではなく作ることでどれだけの変化があるのかを決めて実行することが重要なんじゃないかと思う様に変化した。
古道巡りを繰り返していると、こんなに人の名残がなくても人が道があるって認識できるんだなとなんだか嬉しくなる。ホワイトギャラリーの壁に絵を掛けたり、空間にものを置くことは確かにバッチリ見えてきてかっこいいけど、古道のように曖昧に見えてくる物も必要なんじゃ無いかなと思ってる。
長い年月をかけて植物と混ざり合った道を見ていたらそんな作品を作りたいなと思う様になった。せっかくあと2年あるプロジェクトだから1年くらい山に馴染ませた様な作品を作りたいなと。
そんなわけで今年の11月は、家具を土や植物に馴染ませる様な形で作った立体物を山に置いて帰ろうと思う。
その結果を2025年に発表したいと考えている。
おまけ
今年の制作で家具を使おうと思って鹿野の古道具や食器などを見させてもらっていた時に気がついたことを話そうと思います。
昔ながらの家具や食器には木彫りで装飾がされていたり、布にも模様があったりと、とにかく模様が付いている物が多かった。
昔はそれが価値をつけていたんだと思う。家具や食器を見ているときに僕はよく「模様がなかったら欲しかったんだけどな」と言っていた。なんだかそれがとても悲しかった。
付加価値が付いている美術に対して全くいいと思えなかった。無印製品やニトリ、イケヤなどが流行っている現代には模様があることはそうそう無い。内装もさっぱりしているのが流行りですし、身近に付属の装飾があることは珍しくなった。僕が生まれた時にはその流れはできていた。
なんだろうね。
別にそれでいいし当たり前なんだけど、当たり前に模様が嫌だなと思ってしまった。
杉原さんレポート
①鹿野町を訪れて
私はアーティストの髙久柊馬さんのリサーチをお手伝いさせて頂くということで、一緒に鹿野に滞在しました。私は大学で建築を専攻していたので、古民家の活用や町並みについて興味があり、とても良い経験となりました。
訪れた時期はちょうど桜のシーズンで県内外から観光客が訪れ、とても賑わっていました。伝統的な町並みと桜の調和は美しく、まるで昔話の絵本で見たような日本の景色でした。
さらに町を歩いていると、思わず絵を書きたくなるような景色に何度も遭遇しました。しかし、それはたまたま残っていたのではなく、住民のみなさんの想いや努力によって保たれていました。祭りに合う町づくりを目指し、まちなみ協定で瓦の色や建具のデザインなど住宅の外観にまつわる細かい事項が決められていています。法的な拘束力はないものの、多くの住民がそれを守っているので、現在も美しい風景を見ることができます。
私は鳥取県を訪れたのは今回が初めてで、これまでこんなに素敵な場所があることを知りませんでした。ぜひたくさんの方に一度は訪れてほしいです。周囲の自然や伝統的な町並みはもちろん、鹿野町には古民家を改装したおしゃれで美味しいご飯を食べれるお店もあります。しかし、ただ映える観光地として消費されるのではなく、この土地の歴史や町に住む人々の暮らしを尊重した上で訪れる人が増えてくれたらいいなと思います。
②鹿野まつり
鹿野まつりという町にとって大事な行事があるということを聞いたので、私たちは4月に滞在することを決めました。
城山神社祭礼・鹿野まつりは400年という長い歴史を誇るお祭りです。近年では2年に一回開催されることになっているそうですが、コロナの影響もあり、今年は6年ぶりのお祭りでした。祭りは2日にわたって開催され、1日目の宵祭りでは城山神社からご神体を迎える儀式が執り行われます。2日目は鹿野町の7つの町(鍛冶町・大工町・紺屋町・山根町・下町・上町・殿町)が行列と
なって町内の端から端までゆっくり練り歩きます。各町によって役割が異なり、屋台を引いたり、神輿を担いだりなど細かく決められています。
さらにこのお祭りの一つの大きな特徴は若者にいろいろな役割が与えられていることです。小中学生が笛を吹いたり、御幣を持ったりします。少し年齢が上がり高校生以上になると獅子を舞ったり、助役や役面というリーダーの役割も任されるそうです。祭りの何日も前からこれらの練習しているそうで、私たちも滞在中に何度も彼らが練習に励んでいる姿を見かけました。そのときにお話を聞かせていただいたりしていたこともあり、祭り当日のみなさんの晴れ姿を見て私もとても嬉しい気持ちになりました。
祭りの最後には年行事役面が目録を大きな声で読むという大役を務めます。その立派な姿と周囲の方の様子が印象的でした。彼を幼い頃から知っている町内の方は感動していました。町のみんなで若者の成長を見届けるというのは小さな町ならではで、祭りがその大きな成長を見られる機会でもあるということを知りました。それ以外にも感動する場面にいくつも出会い、とにかく熱くて濃い祭りでした。今も笛のメロディーを忘れることができません。
祭りが終った後もわからないことが多く、たくさんの方にご協力頂いて、さらに詳しい調査を行いました。この祭りを通してたくさんの方とお話できたのも良かったです。少子化により、祭りを存続させることが困難になってきています。そこで、かつては女人禁制だったそうですが、女子も参加できるように変更するなど工夫をしているそうです。、県外に出てしまった方でも祭りのために戻ってくるそうです。今後も少しずつ形は変わってしまうかもしれませんが、このお祭りが無くならないでほしいと思います。
これから私は祭りの様子を令和6年の姿として描く予定です。絵巻や和タオルにして、祭りの存続に少しでも貢献できればいいと思っております。
③髙久さんと一緒に滞在して
今回はアーティストの髙久さんと2週間滞在させて頂きました。彼は既に鹿野を訪れているということで、町の案内や地域の方を紹介して頂いたりしました。髙久さんは、昨年の秋に表鷲科の授業で現在の小学4年生と一緒に石や木の枝で作品を作っています。そのため生徒の皆さんは今も彼のことをよく覚えていて、町ですれ違うと「たかくさん!たかくさん!また来てくれたの?一緒に遊ぼうよ」などと声を掛けてくれて、4年生のみんなにとって本当に楽しかったのだなということ感じました。彼は子供たちに対して先生とはまた違った接し方をしていて、それが親しみへと繋がっているのではないかと思います。子供との関わり方も勉強になりました。
私も2日間ですが、髙久さんと一緒に小学校で一緒にデッサン教室をさせて頂きました。みなさん、モチーフをよく観察して、かぼちゃとりんごを描いてくれました。あまり道具をたくさん持っていない私を気にかけてくれたり、町で会えば遠くからでも挨拶してくれたりなど、素直で優しい子が多かったです。
このように若い世代に芸術を楽しんでもらうのはとても重要なことで鹿野芸術祭を行う一つの意義でもあるかもしれません。今年の秋も別のアーティストさんがまた小学3年生に授業をするそうなので、このような取り組みがこの先何年も続いていくと良いのではないかと思います。
鹿野芸術祭は、3年計画を掲げていて、長い時間かけてアーティストが町内の方と関係性を築いた上で作品を作ります。この方法によって、アーティストが一度来て終るのではなく、町のことをじっくり観察できたり、住民との交流が生まれます。滞在中、髙久さんと町の方が徐々に仲良くなっていく様子を見て、このアイデアはとても良いと思いました。私はお手伝いとして呼んで頂いたので、この3年計画に参加しているわけではありませんが、鹿野の町並みや町のみなさんと過ごすのが好きなので、私も何らかの形で今後も鹿野町に関わっていきたいと思います。
今回は町並みや祭りについてリサーチをさせて頂きました。これが今後の髙久さんの作品にどう影響するかはまだわかりませんが、町の歴史や文化を知った上で作品を作るということがこの芸術祭においてとても大切なことなので、少しでも役に立てばうれしいです。来年の芸術祭をとても楽しみにしております。
滞在レポート 2024 11 月
【 四季薫る町 】から考える 2023年度
ここでは、人よりも動植物が多く、人の介入に限界がある場を「外界」や「自然」と考えます。それらとの調和や関係を探る行為が数多く出来上がり日本文化として残されてきたと思います。今も残る文化の中から魅力的に思った文化を本展示を通し伝えてみます。今展示が町の文化の維持、新しい文化形成に繋がったらいいなと考えております。
2023 年に初めて鹿野を歩いた時「四季薫る町」の看板を見た。
四季彩るという言葉は日本中で言われているが、今までの生活の中でここまで四季を感じたことはなかった。なので「四季薫る町」をテーマにして何故そう感じたのか考えてみようと思った。
町で過ごしているといい庭が沢山あるなと思い始め、庭から町を見てみようと考えるようになっていった。丁度このタイミングで「雲龍寺」での庭公開が重なっていた事も町を見る上で良い入り口になったと今は思う。
一年前に見たものだから不確かな記憶ではあるが、庭のずっと奥の正面にこの庭で一番立派な木がどっしりと構えていたものだったと思う。
それから、「創作味処そろそろ」さん、「しかの宿 本田中家」など改めて庭を見てみた。
自分でも庭のような事をやりながら考えてみたいと思い 2023 年度の成果発表は「内庭」を鹿野学園の小学生と共に作る事にした。
実際に城山から枝や石や葉っぱ、などの素材を集める授業から始め、それを室内で組み立てていくという授業を行った。
展示の大まかなテーマ、構成は僕が考えてしまったが子供達の力でほとんど作り上げ。それを大人達が見に来る時の自慢げにしている子供達を見られてよかった。
(2023年 鹿野学園3年生との授業の様子)
【 自然崇拝から考える街 】から考える 2024年
【 祭りから見る 】
鹿野の城下町で過ごしていると、城下町一体が自然との調和を図っているように思え
てくる。 そう感じて来る理由としては鹿野には景観条例の影響があるのではないのかと思う。 この整備規定が面白く「祭りの似合う町」としています。
この「祭り」とは、400年以上続く「鹿野まつり」のことで、無病息災や豊作祈願を込めて行われてきた伝統行事です。
400 年前、日本各地で「四季薫る町」は当たり前の風景だったかもしれませんが、現代においてその姿は、珍しいものになってきていると感じております。鹿野では時代に合わせた利便性を保ちながらも、古き良き文化や自然への敬意が祭りを軸として受け継がれてきた結果、かつての情緒あふれる風景が今でも残り続け「四季薫る町」に現代でもなっていると思います。
昨年度は「自然との関係」をテーマに「庭」を制作してきましたが、庭だけでなく「家」そのものからも自然との調和が始まっていると感じるようになりました。鹿野では、多くの建物が日本家屋の様式で建てられており、縁側が庭と建物を繋ぐ役割を果たしています。庭で自然と調和し、その景色を縁側から眺める。このように建築を通じて文化が残されているからこそ、町全体で自然との調和を意識する心が根付いているのではないでしょうか。
【 鹿野往来、古道、投入堂から見る 】 制作
山の中に入ると昔使われていた道がある。
それらは使われていた形跡が今でも残されている。残り方は魅力的で草木が道を覆う形で残されている。
投入堂では現在も多くの人が入る事で、道がより道らしく出来上がってきているように思う。もともと投入堂までの道のりは、人が踏みやすいところをすすんで参拝に向かっていたものだと思われる。これが年を重ねるごとによって道としての存在感を強めてきたように思う。
2025年度では、上記のような人が何らかの行動に伴った自然の変化を作品に取り入れていこうと考えております。
2024年度、展示一部
彫刻を森に置く
彫刻作品や絵画作品を森に置くことで、作品に苔が生えたり、藻が生えたり様々な草木が生えてくると考えております。今年の4月の滞在時でも仮で引き出しに土を入れて置いたところ引き出しの形に合わせ苔は10cmほど伸び、松の木や様々な植物がみられました。
成長する植物、朽ちていく手の加わった物を制作する事を本年度で決定いたしました。
2024年度で行った事
1.鹿野祭りのリサーチ。 4月
それぞれの町の持つ役割をリサーチ。
殿町の神輿に参加するなどした。
2. 鹿野学園にてデッサン教室
図工の授業は、ものづくりの楽しさを教える授業が多そうだったので
担任の山尾先生と相談し技術面の授業をしてみることにしました。
3. 来年の展示に向けての構成を決定
次年度に向けた、サンプルの制作。下準備など。
4. 鹿野学園で風景画を共同制作
秋の風景と冬の風景を見比べるものを作ったら冬の景色も新しい刺激になるかなと思い、
季節の移ろいを楽しめるものを正門に作ってみました。
COMMING SOON